宵闇の魔法使いと薄明の王女 7−5

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 一言で言えば、そこは“黒”だった。
 一面すべてが真っ黒で、そして禍々しい空気を漂わせていた。

 あの美しく居心地が良かった中庭は、もう影も形もなかった。
 田園風景を思わせてくれていた野花や野草、彼女が一生懸命並べたのであろう煉瓦で作った小道。
 ついこの間二人で笑い合っていた東屋__

 その全てが焼き尽くされ、黒い炎がそこかしこに燻ってはまだ燃え続けていた。

 その残酷な風景にジルファリアは言葉もなく立ち尽くしていた。
 自分の息遣いと、ごうごうと黒い炎が燃え続ける音が聞こえるだけだ。

 そして先ほどから鼻を突くこの臭いはなんだろう。
 呆然としたジルファリアはそのまま視線を巡らせる。
 木や花が燃えるだけでこんな異様な臭いはしない。それに、ジルファリアはこの臭いを嗅いだことがあった。
 これも“あの時”と同じだ。
 思わず首筋に手を当て、顔を顰めた。
 あの時、自分たちの周りに纏わり付いてきた黒い霧のようなもの。あれと同じ臭いだ。いや、更に色濃く濃縮されており、それが一層頭をくらくらとさせた。

 ジルファリアは自分の頬を叩き気持ちを引き締めると、もう庭とは呼べない場所に足を踏み入れた。

 その芝が敷かれていた場所を靴で踏み締めるとボロボロと崩れ去り、灰だらけの残骸となった。
 煉瓦の小道であった場所を進むと、靴の裏がとても熱く焼けた石の上を歩いているようだ。
 その時、傍に置かれた真鍮の如雨露が目に入り、彼女が愛用していたものだと手を伸ばす。
「あつ……っ」
 それは炎の影響で灼けつくような熱を帯びており、ジルファリアは如雨露を落としてしまった。
 乾いた音が響き、息を呑む。
 黒頭巾がまだここに居る可能性が高いのだ。いつ対峙するか分からないのに。
 ジルファリアは再び辺りを注意深く見回した。

 その時、ぴぃ、と聞き覚えのある声が聞こえてくる。
 マリスディアが連れ帰ったあの白い鳥だ。

 ということは、彼女は間違いなくここにいる。

 緊張と暑さで額に滲んだ汗を拭うと、ジルファリアは更に奥へと歩を進めた。

 「マリア……!」

 大声を出すわけにもいかず、囁くような声でジルファリアは呼びかけ続けた。当然返事が返ってくることはなく、ただ炎の燃える音と熱せられた空気が巻き起こす風の音だけが聞こえてきた。吸う息と共に熱風が肺に流れ込み、思わず咳き込んでしまう。
 見れば見るほど酷い有様だったが、同時にジルファリアには一つ疑問が湧いた。

 これだけの異常な状況だというのに、何故誰にも気づかれないのか。
 いくらウルファスの体調が芳しくなかったとしても、王城には何人もの従者がいる。あの嫌味なヒオにしてもタチアナにしても、ウルファスの側近であるということはきっと高い能力を持った者たちに違いないのに。
 ここは王宮の中庭なのに、何故誰もここへ辿り着かないのだろう。
 気配を感じる感じないは別として、流石にこの熱さは気がつくような気がするのだが。

 そんな事を考えながら歩くジルファリアが立ち止まる。突如目の前に現れた光景に目を疑ったからだ。

 「マ、マリア……っ!」

 そこにはうつ伏せに倒れているマリスディアの姿と、彼女に向けられている一本の長細い針のような影が見えた。
「お、お前っ……!」

 想像していた通りの光景だったが、それ以上の恐ろしさにジルファリアが声を上擦らせる。
 その長い針を手にしていたのは、やはり黒頭巾だったのだ。

 マリスディアのことを貫こうとしているのか、彼女に狙いを定めた針を動かすことなく、黒頭巾は首だけこちらに向けた。
 あの異様な金属で覆われた布で口元を覆っている。息遣いだけが聞こえ、それが人間のものであるとジルファリアは気がついた。
 相変わらずフードのせいで顔もよく見えず、黒頭巾の意図も全く読めないままであったが。

 「おマエは、あのトキの……」
 そう呟いたくぐもった声も覆面のせいで金属音に変わる。
「ナゼ、ここへコられた?」
「……てめ、マリアに何しやがった!」
 相手が声を出したことでジルファリアも恐れが減ったのか、噛み付くように叫んだ。
「こちらがキいている。ナゼここへハイってコられたのだ?」
「はぁ?何でって知るか!そんなことよりマリアを返せっ!」
 そう返しながらジルファリアが一歩前へ詰め寄ると、黒頭巾はマリスディアに向けていた針をついと上へ向けた。その動きを追うように金の光がゆらめく。それはまるで縫い針のようだとジルファリアは感じた。アドレが繕い物をしている時の動作に似ていたのだ。現に黒頭巾が持つ金針の手元にはきらきらと光る細い糸のようなものが垂れていた。そしてその糸は、伏せた彼女の首筋あたりへと伸びていたのである。
 黒頭巾の針とマリスディアはこの糸で繋げられていたのだ。

 「……これでオわりだ」

 そんな金属音に我に返る。
 黒頭巾は腕を引くと、その針も糸も、見る影もなく消え去った。
「マリア!」
 ジルファリアは慌てて彼女に駆け寄る。

 「あぁ……」
 そして彼女を助け起こそうと見下ろした瞬間驚愕した。
 黒い炎の所為だろうか。彼女の白い肌は真っ黒に焼け焦げ、美しかった金の髪は熱で歪に曲がっていた。
 そして傍には先程鳴いていたのであろう、白い鳥が横たわっていた。真っ白だった羽は煤だらけで黒ずんでいる。
「マリア!……おい、マリア!」
 必死で呼びかけるが彼女の閉じた瞼が開くことはない。
「……へんじ、してくれよぉ……」
 ジルファリアは力無く項垂れた。
「なぁ、マリ……」

 「オウジョのことをシンパイしているバアイか?」

 冷たい金属音のような声がすぐ背後から降ろされる。
 そのぞっとするような声に、ジルファリアは戦慄が走った。
 振り返ると針の鋭く尖った先が自分の目の前に突きつけられていたのだ。ほんの少し前進するだけで、自分の瞳は串刺しになっていたことだろう。
「あ……あぁ」
 身体の震えが止まらず、声もまともに出せない。熱風のせいで喉がヒリヒリと痛んだ。
 ジルファリアは目を見開いたまま何もできないでいた。

 「シね」

 短く金切り音が響く。

 もう駄目だとジルファリアは目を閉じる。素早く脳裏を父母の笑顔が過り、喧嘩して出てきた事を後悔した。
 黒頭巾が一旦針を引き、ジルファリアの首目掛けて刺し貫こうと突き出す。

 __その時だった。

 「ぐぅ……っ!」

 __沈黙。
 覚悟していた痛みは襲って来ず、短い呻き声が聞こえた以外何も聞こえなかった。
 そしてジルファリアは、自分が何かに包み込まれている事に気がついた。

 「お、おっちゃん!」

 目を開けると、自分はラバードの太い腕に抱き締められていたのだ。彼は背を丸めてジルファリアのことをがっちりと抱え込んでいた。
 そして先ほどの呻き声が彼から発せられたのだと気がつく。
「おっちゃ……!」
「黙ってろ、ジル」
 短く返すラバードの息遣いが荒くなっている。それだけで彼が危機に瀕しているのだと容易に想像できた。恐らく先ほどの一撃を受けたのだろう。それでも彼は腕の力を緩めず、それはジルファリアを守ろうという彼の意志なのだと感じた。

 「ぜったい……絶対、俺が何とかしてやるからな」
 ぐっと更に力を込めて、ラバードが声を殺す。
 見上げると彼はにかっと明るい笑顔を向けた。心配するなよと言っているように見えた。
 だが、そんな笑顔にも汗がだらだらと流れ落ちている。相当の痛みが彼を襲っているのだ。

 「うっ……!」

 彼の身体が鈍く振動し、更に攻撃されたのだと気がついた。
 背後から黒頭巾が長い針で彼を突き刺しているのだろう。そんな振動が何度も何度も続く。ジルファリアの胸の内は怒りと恐怖が混ざり合い、身体が震えた。
 その時、突然自分の額にあたたかいどろりとしたものが垂れた。顔を滴り落ち衣服についたそれを見て、ラバードの血だと気がついた。ジルファリアは金切り声を上げた。
「おっちゃんっ!」
「こっち見んな!」
 ジルファリアを更に強く抱きしめ、ラバードは大声を上げた。

 何とかしなくては。このままではラバードが危ない。
 ジルファリアは自由の利かない身体で視線を巡らせた。

 その時、視界の隅にきらりと光る青いものが見えた。

 __あれだ。

 次の瞬間、ジルファリアは彼の腕を無理やりほどくとマリスディアに駆け寄る。
 彼女の傍らに落ちていたそれは、青い硝子玉だった。
 良かった、まだ金色の星々が硝子玉の中で光っている。ジルファリアは迷わずそれに唇を当てた。

 ぱりん

 わずかな音と共に痛みが唇に走る。
 息を吹き込んだ瞬間、それは容易く割れた。
 金色の星々が流れ出てくると、みるみる間に箒星に姿を変えていく。

 「お願いだ!……おっちゃんを」

 願いを声に込め、ジルファリアは叫んでいた。
 呼応するように箒星は光を放ち、飛び去った。

 「おマエはウンがいい」

 冷たい声が響き、黒頭巾がこちらを見つめていた。おそらくここから逃げるつもりなのだろう。
「おっちゃん……!」
 その下に転がっているラバードの姿にジルファリアは狼狽した。
 一体どれほどの攻撃を受けたのだろう。彼の大きな身体には無数に深い穴が開けられ、夥しい量の血が流れ出ていた。
「お、オレっ……」
 彼の傍に膝を付くと、衣服が血に染まる。そんなことはお構いなしにジルファリアはラバードの手を握った。握り返すことのないだらりとした力無い感触にぞっとする。
 消え去ってしまいそうな灯を繋ぎ止めておく方法を考えたかったが、小さなジルファリアには全てが限界だった。

 自分には彼を治療するだけの魔法もなければ医術の知識もない。
 彼を担ぎ逃げ出せるくらいの力もない。
 ラバードをこんな風にした黒頭巾を捕まえておくこともできない。
 ジルファリアは「ごめん」と何度も呟きながら涙をぼろぼろと流し、それはラバードの髪を濡らした。

 「……泣くな、ジル」

 すっかりか細くなってしまったラバードの声に、ジルファリアは顔を上げた。
「おっちゃん!」
 ごろごろと喉の奥で鈍い音をさせながら、ラバードがこちらに向けて手を伸ばした。
「ったく……アドレと喧嘩して飛び出したと思たら……こーんなとこにおるんやからな」
 開かれた瞳の光は既に消えかけており、ジルファリアの姿も映らない。
「ほんまにお前はとんだ悪ガキやなぁ……ジル」
「ごめん、おっちゃん、ごめんなさい……」
 どんどんと涙が溢れ、ジルファリアの視界もぼやける。拭う為に両腕で目を擦ると、袖に着いた彼の血でぐっしょりと濡れていることに気がついた。

 「いいんだ。……これが俺の天命。あの銀雪の日から決まってたことだ。今更抗うことなんざしねぇよ」

 __お前を守れて良かった。

 そう呟くラバードの声は不思議と落ち着いており、表情も穏やかなものだった。
 息も切れ切れに、ラバードはこちらに体を向けるとジルファリアの髪を撫でた。いつもの力強さは無く、震える指が滑り落ちるように髪を梳いていた。
「……ただなぁ、心残りはあるんや」
 ラバードはわざと明るい訛り口調になり、ぎこちなく口の端を上げた。
「サツキにもっと、話したいことがたくさん、……たくさんあった事やなぁ」

 そうだ。
 サツキの顔を思い出し、ジルファリアは顔を歪める。

 父ひとり、子ひとりだったサツキは、一人きりになってしまう。

 「ジル、サツキに伝えてくれ。……俺は、お前の親父になれて、嬉しかったてな」
「……オレにはむりだ、ムリだよ」
 想像するだけでまた涙が溢れる。ジルファリアは激しく首を横に振った。
 そんなジルファリアの声に慈しむような表情をしたラバードは、仰向けに自分の体を横たえると細い息を吐き出した。

 「ジル、サツキ。お前らのそばにいられて、……俺の人生は、幸せやった」

 __ありがとう

 そんな言葉を落とすと、ラバードは静かに目を閉じた。
 まるで眠りにつくかのような、そんな最期だった。

 飛び去った箒星の火の粉が、まるで悼むかのように彼の身体に降っていた。

 それからジルファリアは自分がどうなったのか覚えていない。
 声にならない声を上げ、喉が千切れるくらい叫んだところまでは覚えていたが、そこで意識を手放したのだった。

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この記事を書いた人

ファンタジー小説が好きです。
読むのも書くのも好きです^^

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