どこをどう走っているのか、自分でも分からない。
ジルファリアはただ足を前へ前へと走らせた。
色々な思考と感情が混ざり合い、自分でもどうしたらいいのか分からなかった。
(母ちゃんの分からずや!なんでオレの気持ちを分かってくれねぇんだ)
心の中では母への恨み言をずっと繰り返していた。
ジルファリアはアドレが何故あそこまで頑なにアカデミーへ行くことを反対するのか理解できなかった。きちんと自分の考えを伝えれば、きっと応援して送り出してくれると思っていたのだ。
大きな瞳からはぼろぼろと涙が溢れてくる。
それを拭うこともせず、ジルファリアはひたすら走り続けた。
やがて息が上がり、口の中に血の味が滲んできた頃、
「あれ……」
気がつけば、見覚えのない場所に出て来ていた。薄ぼんやりと仄かに光る提灯がいくつか木からぶら下がっているそこは、小さな広場のような場所だった。
「こんなところ、城下町にあったっけ……」
というよりも、ここはどこなのだ。ジルファリアは辺りをきょろきょろと見回した。
少なくとも職人街ではなさそうだ。鬱蒼とした木々が立ち並び、暗い森が背後に広がっている。
周りに家屋らしき建物は見えず、木々からぶら下がる提灯が風に吹かれながら揺れているだけだった。提灯の色が紫色や朱色など、あまり見たことのない色の取り合わせが珍しく、またぼんやりと光る様がどこか幻想的であった。
提灯の下には小さなベンチが置かれており、走り疲れてくたびれたジルファリアは腰掛けることにした。
日はとっぷりと暮れ、提灯の光以外は真っ暗闇だった。木々の葉が風でざわざわと音を鳴らし、まるでそこにいる者を飲み込んでしまいそうだった。その上聞いたことのない鳥の鳴き声が突如響き、ジルファリアは身を固くする。
母とのやり取りで沸き上がった様々な感情に、今度は恐怖までもが加わり、ジルファリアは膝を抱えてベンチの上で蹲った。家へ帰りたい気持ちと、帰りたくない反抗心がせめぎ合った。
そして風の音で目をぎゅっと瞑った時のことだった。
「こんばんは」
なんとも呑気な挨拶が聞こえてきたのである。
顔を上げると、いつの間にそこにいたのだろう、黒い礼服のようなものを纏った男が立っていた。外套を羽織り、手に握った蝙蝠傘を杖のようについている。
背が高く体格もしっかりとしており、まるでラバードのようだと思った。
ジルファリアが身を硬くしていると、ふっふっふと愉快そうに笑いながら踊るようにこちらへ近づいて来た。
「あぁ、すまない。知らない大人が急に近づいては怖がらせてしまうかな」
そう呟くと、少し離れたところで立ち止まる。遠目には気が付かなかったが、岩のような強面がにこにこと楽しそうに笑っており人懐こい表情を浮かべていた。
ジルファリアはひと目見て、何故だかこの紳士をとても好きだと感じた。
紳士の年齢はパドより少し上くらいだろうか。こめかみあたりには豊かに生えた黒髪が天に向かってつんつんと跳ねていたが、頭頂部だけがつるりと禿げ上がっており、年齢が読みづらかった。
「君は、こんなところで何をしているのだね?」
離れたところから紳士が首を傾げて訊ねる。
「もう日も暮れているし、子どもが一人で出歩くには少々危険だ。私が家まで送ろうか?」
「……いやだ」
男の声がとても温かく優しかったので、ほっとしたジルファリアは次に母への反抗心を顕にした。そしてぶんぶんと首を横に振る。
「帰りたくない」
「おや、何故だね?」
「……母ちゃんと、ケンカしたんだ」
膝を抱えたままジルファリアが唇を尖らせる。なるほど、と呟いた紳士は「内容を聞いても?」と続けた。
誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。ジルファリアはこくりと頷くと先程のやり取りを話し始めた。
「ふむふむ……、なるほど。アカデミーの入試に挑戦したいのに反対されているということだな」
すっかり打ち解けた様子で、紳士はジルファリアの隣に腰掛けていた。
ジルファリアが話す間は神妙な面持ちで耳を傾けていたが、彼が話し終えると今度は何やら考え込んでいる。
「母ちゃん、オレや父ちゃんたちが何言っても、ダメだ認めないってそればっかりなんだ」
しょげた様子でジルファリアが肩を落とす。
「うむ……、これは私の想像でしかないが、きっとお母上は君のことが心配だからそんなことを言うのだろう」
「心配?」
思わず紳士を見上げると、彼はこくりと頷いた。
「そりゃあそうだろう。魔法のことを何も知らない息子が、いきなり魔法の何もかもを教えてくれるアカデミーに入るんだとしたら、色々と不安が生じるものだよ」
どこか楽しんでいるような表情で男が微笑む。そして芝居がかった身振り手振りで立ち上がって見せた。
「友だちはできるのだろうか、そもそも難しいと言われている魔法の勉強に付いていけるのか。落ちこぼれたりして子どもが傷ついたらどうしよう……」
「そんなの、ただの想像でしかないじゃん」
ジルファリアの言葉に動きを止めにこりと頷く。そしてまた隣に座った。
「そうだ、ただの想像なのだよ。でも、そういった不安の先取りのようなことを時折してしまうのが親なのだ」
「何だそれ」
「だから君のお母上は、自分が不安になるような状況を遠ざけようとしたのではないかな?」
「むー、よく分からないぞ」
「そうだな、君はまだ守られる側だから分からなくて当たり前だ」
彼がふっふっふ、とまた愉快そうな顔で笑った。
「……おじさんにも、子どもがいるのか?」
そんな問いかけに、男は首をわずかに傾げた。
「うむ……、本当の子どもはおらんが、子どものように可愛がっている子はいるよ」
「ふぅん。じゃあやっぱり心配したり、不安の……さきどり?ってやつをしたりすんのか」
「まぁ、できる限りその子の望む事は応援したいが、これがなかなか難しい」
そう言って、手に持っていた蝙蝠傘でトントンと自分の肩を叩く。
「だから君のお母上の気持ちも分からんではないな。頑ななのは、それだけ君が大切だからなのだよ」
「かたくな……?」
難しい言葉使いにジルファリアが首を傾げると、紳士は言葉を探した。
「……頑固、という事だな」
「確かに!母ちゃんすげぇ頑固だ!」
ジルファリアがそう返すと、紳士がブハッと豪快に吹き出した。つられてジルファリアも吹き出す。
それだけでジルファリアは不思議と温かな気持ちになってきた。この紳士には人を安心させてくれる__不思議な力があるように感じた。
「さぁ、それでは中央通りまで送ろう」
よっこいしょと立ち上がり、紳士がこちらに笑いかける。
「あ、そうだ。ここはどこなんだ?」
同じようにベンチから立ち上がったジルファリアが問う。男はまた楽しそうに肩を揺すりながら笑った。
「学生街だよ。……この森の向こうが、アカデミーだ」
そう言うと、背後の森を指差した。
振り返ったジルファリアは、来た時よりもここが恐ろしいとは感じなかった。
「君、名前は?」
ジルファリアの背中に紳士が声をかける。
「ジル……、ジルファリア=フォークスだ」
+++
「フォークスという家名で気になっていたのだが」
学生街の石畳の小路を紳士と二人並んで歩いていると、紳士が顎に手を当てて神妙な顔をしていた。
「もしや、君のご実家はパン屋ではないかね?職人街のフォークス亭……」
その問いにジルファリアはすぐさま頷く。
「うん、そこがオレの家だぞ」
すると紳士は瞳をキラキラとさせ、それは嬉しそうな顔をしたのだ。
「ほうほう、やはりか!クラケットがとても美味いと学生の間でも評判で」
「そうなのか?」
「こう見えて私も甘党でな、以前から気になっていたのだ」
母の焼き菓子を褒められ顔が綻ぶのを自分でも感じる。
「けど、学生の間でもって……、おじさんは一体何者なんだ?」
「ふふ、何者だと思うかね?」
目を細めてにこにこと笑うが、どうやら答えてくれる様子はないようだ。落胆したジルファリアはこっそりと隣の男を見上げる。
彼は厳つい風貌で、一見すると山賊だか盗賊だと思ってしまうが、声色や話し方などから鑑みるととても育ちが良さそうな印象を受けた。
(貴族なのかな……)
そんなことを考えながら学生街の風景に目を遣る。
紫や朱色の提灯が学生街のシンボルなのだろうか、不規則ながらも所々に灯りを灯していた。
家屋や集合住宅地のような建物がひっそりと佇み、人の気配をそんなに感じないほど静かな街並みだった。
そして学生街というだけあって、古本屋や魔法書店などがとても目立つ。尤もいまは店じまいしているため寂しい外観だったが。
いつも賑やかな職人街とは対照的で、ジルファリアはいまが現実的ではないような錯覚を起こした。
「さぁ、そろそろ中央通りに出るぞ」
そんな言葉に我に返ると、視線を前方に向ける。
突然視界が開け、真っ暗だったのがきらきらとした街並みに変わる。
中央通りでは、暖かな色をした橙色の街灯がそこかしこに灯っていた。流石に昼間ほどの人通りはないが、夜の散歩を楽しむ者や外食帰りの家族連れなどが歩いていた。
急に見慣れた風景が現れたので、ジルファリアは面食らいながらもほっとする。
そして、光が灯る街灯の並びを見ていると、あることに気がついた。
「なぁ、おじさん」
「うん?」
「……今日は、黄昏星が出てないんだな」
ぽつりと呟くと、紳士ははっと息を呑む。
__そうなのだ。
先程の学生街にしたって、普段は黄昏星の光がそこいらに漂っているはずだったのだ。
日が落ちる黄昏時から明け方にあたる薄明の刻まで、ウルファスの黄昏星が守ってくれているはずなのに、今夜はそれがない。
「ウルファスさまに、何かあったのかな」
その時冷たい風がひと吹きし、ジルファリアは自分の身を掻き抱いた。
ジルファリアは何の気なしに感じたことを発したつもりだったが、どうやら隣の紳士はそうではなかった。
「……ウルファス」
そう呟くと、王城の方に目を凝らしたのである。
「おじさん、ウルファスさまを知ってるのか?」
「悪いが、ジルファリア君。ここからは自分で帰れるかな?」
視線を王城から離さずに、男はそう訊ねる。その表情は険しく、先程までの人懐こいものとは程遠かった。
「え……?う、うん。大丈夫だけど……」
「申し訳ない。少し用が出来たので、ここで失礼させていただくよ」
紳士はそう言い残すと、中央通りの先へと足を踏み出したのだ。
「あっ!待って、おじさん!」
ジルファリアが咄嗟に呼び止めると、彼がこちらを振り返る。
「おじさん、……名前は?」
深い意味はなかった。
ただ、名前を聞いておきたいと思ったのだ。
またきっと彼と会うことになると、直感したのかもしれない。
俯いた紳士は一瞬考えた後、こちらにまた温かな微笑みを向けて告げた。
「……宵闇」
一瞬聞き取れず首を傾げたが、彼はもう一度はっきりと言った。
「宵闇の、魔法使いだ」
+++
“宵闇の魔法使い“と名乗った紳士と別れ、ジルファリアは中央通りを職人街の方へと横切るところだった。
中央通りの中心には王城から流れてくる小川のような水路が通っており、水の流れる音が静かに響いていた。昼間は水遊びをする子ども達で賑わっているのに、夜はずいぶん静かだとジルファリアは寂しく感じた。
「宵闇の魔法使い、か」
先ほどの言葉を反芻し、ジルファリアが水路に置かれた飛び石を軽やかに跳ぶ。
(そう名乗ったからには、あのおじさんも魔法使いなんだろうな)
穏やかな笑顔で、母との喧嘩のことをずっと聞いてくれていたあの紳士を思い出し、ジルファリアはまた会いたいなと思っていた。
(……それに)
ウルファスのことも知っているようだった。
飛び石から反対側の通路に飛び降りると、ジルファリアは立ち止まる。
もう一度空を仰ぎ見ると、夜空に星々は瞬いていたが、国中を漂っているはずの黄昏星は少しも見えなかった。
「ウルファスさま、大丈夫かな」
その時、木枯らしのような冷たい風が吹き、ジルファリアは身を竦める。
「……痛っ」
そして突然、びりびりと痺れるような痛みが首筋を走ったのである。思わず首筋に手を当てたが、特に怪我をした様子もない。
ジルファリアは、つい最近もこれと同じ痛みを経験したことを思い出した。
(そうだ、マリアが連れてかれた時に会ったアイツ……)
脳裏に過ぎる、あの不気味な枯れ木のような風貌。口元を覆う覆面から聞こえた金属音のような声。
ジルファリアはゾッとした。
それだけではない。
何か得体の知れないものが、身体の周りを這いずり回るような嫌な感覚が纏わりついて離れなかった。
(何かが、どこかで起こってる)
__いや、どこかではない。
「王宮だ」
そう感じずにはいられなかった。
そして、それはきっと彼女にとっての有事なのだ。
自分に出来ることなど、無いに等しい。
足手纏いに違いない。
__それでも何かしたい。
気がつけばジルファリアは駆け出していた。
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