七章;鈍色空と忘れ草
冷たい風が頬を撫で、ジルファリアはぶるりと身を震わせた。
「前より明らか寒い日が増えてきたな」
そう言いつつも、けろりとした表情のサツキが片手を掲げる。木枯らしに吹かれて舞い上がった落ち葉を掴もうとしているようだ。
「サツキはいつも寒いのなんか平気だよな」
すっかり所定の位置と化した自宅の屋根の上で、寒さ凌ぎにぴょんぴょんと跳ねながらジルファリアが恨めしそうに見遣る。
「ふふん、なんでやと思う?」
何故か勝ち誇ったような表情でサツキが笑った。
「知らねぇよ」
跳ねた拍子にジルファリアの方が先に落ち葉を掴んだ。
「雪の日生まれやからとちゃう?」
同じく落ち葉を掴みぼそりと呟く彼の言葉に、ジルファリアは首を傾げた。
「サツキは雪の日に生まれたのか?」
「おれは覚えてへんけどな、そうらしいわ」
「へー、珍しいな。セレインストラは春の国なのに」
しかしながら、ここまで寒いと常春神話もそろそろ終わりなのだろうかとジルファリアは空を眺めた。鈍色の空から変わりゆく夕焼けの色がいやに赤い。まるで血の色のようだと身をすくめた。
「あー、けどおっちゃんが言ってたな。セレインストラにも雪が降った日があるって」
「そうなんか?」
「なんかお祭り騒ぎだったって言ってたぞ」
「なんやそれ、普段とあんま変わらんやんか」
「うん、オレもそれ言った」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑うと、今度は足を投げ出して座り込んだ。
「今日、おっちゃんは?」
「おらん」
「えー、またかよ……、おっちゃん最近ずっといなくねぇ?」
今日は母ちゃん特製の鍋料理を振る舞う日だって言ってたのに、とジルファリアは一人ごちた。サツキも浮かない顔でため息を吐く。
「あれからずっとやねん」
「あれから?」
こくりと頷くと、サツキは西の方角を指差した。
「王宮行った日」
そう言われてみればそうだとジルファリアも合点がいく。
そもそもあの日ウルファスの執務室へ行ってからというもの、ラバードは時折難しい顔で何かを考え込んでいるようだった。最初は、マリスディアを攫った黒頭巾のことを探す手伝いをしているのだと思っていたのだが、どうやらサツキはそう思っていないらしい。
「おやじ、ほんまは何者なんやろな」
目を伏せるとふっと息を吐き、持っていた落ち葉を手放した。
「何者……?おっちゃんは洗濯物屋だろ?」
ジルファリアが首を傾げてそう尋ねると、サツキは苦笑いで「そうやな」と返した。
「一緒におると時々な、おやじが違う人間に見えることがあんねん」
「前にも言ってたな」
まるで役人みたいだ。
確かサツキはそう言っていた。
「でも、あの時おっちゃんに聞いてみるって言ってなかったっけ?」
「聞いたわ。……けど、はぐらかされてもうた。んなわけないやろーって笑い飛ばされたわ」
「ふぅん、ならやっぱり違うんじゃねぇの?」
「お前は素直なやっちゃなー」
すぐ信じるとことかな、と呆れたように笑うサツキに、ジルファリアはますます首を捻ったのだった。
「そろそろ鍋の時間なんちゃう?おばちゃんのこと手伝わんと」
ぽんぽんと尻の埃を叩きながらサツキが立ち上がる。
「そうだな、皿くらい運ばねぇと」
同じくジルファリアも立ち上がると、サツキは目を丸くした。
「珍しいな、ジルが自分から手伝おうとするなんて」
「へへ、最近は店番と掃除も頑張ってるんだぞ」
得意げに胸を張るとジルファリアは鼻高々に言い放った。
「どういう風の吹き回しや」
「まぁまぁ、あとで分かるって」
にしし、と歯を見せて笑うと、サツキは「嫌な予感しかせんわ」と言い捨てた。
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「お、おやじ……」
階下へ降りていった二人の目の前には、よう、と手を挙げるラバードの姿があった。
もうすっかり出来上がっているのか、赤ら顔で酒瓶片手にパドと語らっていたようだ。
「キリングのやつ、最近忙しいからよ。今日は無理やり連れてきたぜ」
ほかほかと湯気の立つ皿に匙を入れながら、パドが得意げに笑う。
「いつ飲みに誘っても、最近は断られちまうからな」
「悪いなぁ、パド」
アドレ特製の鍋料理を美味そうにすすりながらラバードがからりと笑った。
「最近、古着屋の姉ちゃんが別嬪でな。よく話し相手に行ってんねや」
「お前は相変わらずだなぁ」
同じようにパドはカラカラと笑うが、アドレは呆れたように腰に手を当てていた。
「おやじ……」
そんな彼らの表情とは裏腹に、サツキは顔を曇らせる。
「何やねん、心配しててんで」
サツキが思わず非難めいた口調で詰め寄ると、ラバードは柔らかい表情でその髪を撫でた。
「最近あんまり帰れてなくて堪忍な、サツキ」
ラバードにしては珍しく優しい声色だったもので、サツキは戸惑いながら俯く。
「時々は晩飯、おやじも作ってや」
「任しとけ、約束するわ!明日は俺様特製地獄スープを……」
「あれはええわ……」
そんなやり取りを横目で眺めながら、ジルファリアは他のことを考えていた。
楽しそうな彼らには申し訳ないが、ジルファリアはジルファリアで大切な話を切り出す機会を窺っていたのだ。
「まぁ、とりあえず冷めないうちに食べな食べな」
明るい声で促すアドレの様子に、今だとジルファリアは唾を飲み込んだ。
「なぁ、母ちゃん、父ちゃん」
ずっとこの日のことを頭の中で予行演習していたが、いざとなると声が上擦ってしまい何とも締まらない。
だが省みる余裕もなく、ジルファリアは真っ直ぐに両親の顔を見つめた。
「どうした?ジル。そんなおっかねぇ顔して」
頬を赤く染めながらパドが酒瓶から口を離した。
「母ちゃんと父ちゃんに頼みがあるんだ」
膝の上で握りしめた拳にじっとりと汗が滲む。
「何だい、頼みっていうのは?」
皿に具材をよそうのを止めると、アドレはこちらを真っ直ぐに見つめ返す。
一瞬たじろぎ目線を左右に振ったが、ジルファリアは意を決したように唇を引き締めた。
「オレをアカデミーへ行かせてほしいんだ!」
どきどきと心臓が激しく鼓動を打っていたが、思いの丈を言ってしまえば何とも胸のつかえが取れたようなすっきりとした気分だ。
この時ばかりはサツキもラバードも口を閉じ、アドレとパドに視線を移した。
当の二人ははぽかんとした表情でジルファリアを見つめていたが、しばらくしてパドの「そうか」という返事にアドレが我に返った。
「ちょ、ちょっとお待ちよパド。なに落ち着き払ってんだい」
その慌てた様子に、「あぁ、やっぱり母ちゃんが最難関だ」とジルファリアは顔を曇らせた。
「でもジルは前から言ってただろう?アカデミーに行きたいって」
「けど最近は言わなかったじゃないか。なんで今になって……」
「あ、そうか。もうじき入学試験の受付が始まるんやったな」
思い出したようにサツキがぽんと手を打つ。
「何だって?そうなのかい、ジル」
アドレの問いにジルファリアはこくりと頷いた。
「あー、せやからお前、最近店番とか手伝いをめっちゃ頑張ってたんか」
合点がいったようにサツキが顎をしゃくる。
「なぁ、頼むよ母ちゃん。オレさ、魔法をもっと勉強したいんだ。ウルファスさまに会って、ウルファスさまの魔法を見てすげぇって思ったんだ。オレもあんな風に魔法を使ってみたい」
必死の思いで懇願する。
アドレは鼻を膨らませながら腕組みをしていた。黙ったままトントンと指で腕を叩くのを、ジルファリアは固唾を呑んで見守った。
「……だから王宮へ行かせるのは嫌だったんだよ」
しばらくの沈黙の後、アドレが口を開いた。
「ウルファス様にお会いして変な影響を受けなきゃいいと思っていたけど、やっぱり心配が的中したね」
「変な、って……、ウルファスさまの悪口言うなよ!」
ジルファリアが声を荒げたが、アドレは首を横に振った。
「ウルファス様のことを悪く言っているんじゃないんだ。あのお方の魔法を見ても、あんたには無理なんだよ、ジル」
「何でだよっ!」
「あのお方は特別だ。この国を守ってくださる方だもの。それこそこの国で一番偉大な方だよ」
「そりゃそうだけど、オレだって……」
「王族の方と比べちゃいけないってことだよ。そもそもの血筋が違うのさ」
「けどっ……!」
「確かにセレインストラの子どもだったら誰にでもアカデミーへの入学資格はあるよ。けど、実際通っているのは元々魔法の素養がある貴族様や名のある魔法一族ばかりじゃないか」
母の険しい表情に、ジルファリアは何か言い返そうと思ったが言葉が出てこなかった。
血筋や生まれのことを言われてしまうと、なにも言えない。
確かに自分は平凡な町民で、魔法のことすら何も知らない。貴族や一部の魔法一族なんかに比べたら無知な素人だ。
実際にアカデミーに入学する学生の中に、自分のような平民などは本当にごくごく一部なのだろう。
けれども、ジルファリアは諦めたくなかった。母の反対を振り切るようにぶんぶんと首を振る。
「いやだ。オレは決めたんだ、絶対アカデミーに入るって」
「入ってどうするの?」
すかさずアドレの声が飛んでくる。
「え……?」
「入学して、魔法の勉強をして、それからどうするんだい?」
アドレの様子が突然冷静なものに変わる。静かな表情でこちらをじっと見つめた。それはまるでジルファリアの真剣さを測っているようだった。
「どうするって……、ま、魔法でオレは」
そこまで口に出したが、言葉が止まる。
確かに、ジルファリアにはそれ以上の目指す未来の姿が浮かんでこなかったからだ。
アドレはそんな隙をすかさず突いてきた。
「ほらね、結局は魔法がなんとなく使いたい。そんな理由なんだよ」
「違う!オレはマリアを助けるって約束したんだ。だから……」
「ただの平民が王女様の側にいられるわけがないだろう?」
嗜めるような口調に、ジルファリアは悔しさを感じた。何も言い返せず、唇を噛み締める。
流石のサツキも助け舟が出せないようで、部屋には重い空気が流れた。
「まぁまぁ、そう決めつけんな、アドレ」
そんな空気を破ったのは、ラバードだった。
酒の所為で顔は相変わらず赤かったが、酔いの醒めた瞳でアドレを見つめている。
「ラバード、口出しは……」
言い返すアドレの肩に手を置いたのは、パドだった。彼もラバードと同じ考えらしく、静かに微笑んでいる。
「そりゃあな、ジルは確かに職人街育ちや。王族や貴族様からしたら庶民も庶民や。けど……」
ラバードは手元の酒瓶にまた口を付ける。
「ウルファス様は決して生まれや育ちで人を区別しない。この国に生まれたなら、平等に魔法のことを学ぶ機会があるものだと思われている。それが、魔法使いの国セレインストラだ」
空になった瓶をテーブルに置くと、ラバードはアドレに視線を戻した。
「確かにアカデミーの中には、平民を馬鹿にするいけ好かん貴族の奴らとかはいるやろ。けど、ジルが本気で魔法を習ってみたいってんなら……」
そこまで言うと、ラバードは空いた手でジルファリアの髪を無造作に撫でた。
「試験くらい受けさせてやったらいいやないか」
ごつごつの手の平が温かい。ジルファリアは鼻がつんと痛み、視界がぼやけるのを感じた。
「挑戦してこい、ジル」
そんな言葉に俯いていると、パドの頷く声が続いた。
「俺もそう思うぜ、アドレ。前にも言ったがジルの意志を尊重しようじゃねぇか」
顔を上げるとにこにことした笑顔で父がこちらを見ていた。
「何かをしたいっていう気持ちを持つこと自体がすごいことだし、新しいことに踏み出すのは勇気がいる。ジルのことをオレたちは見守ってやろうじゃねぇか」
「父ちゃん……」
ジルファリアが鼻を啜ると、それを打ち消すようにアドレがガタリと音を立てて立ち上がった。
「何だい、みんなして。ともかくあたしは認めないよ」
「そんな!」
アドレの通告にジルファリアは悲痛な声を上げる。
そして、そのまま拳をぐっと握りしめた。
なぜここまで言っても聞いてくれないのか。
自分の内側に、失望のような悲しみが生まれ胸を締め付けた。そしてそれはやがてふつふつとした感情に変わっていく。
それはぐつぐつと煮えたぎったような、燃え上がるような怒りだった。
「さぁ、残りの鍋も食べよう。冷めちゃったね」
そんな取りなすようなアドレの声に、感情が弾けたジルファリアは勢いよく立ち上がる。その拍子にがたんと椅子が倒れた。
その音にアドレが振り返ると、ジルファリアの表情に顔を強張らせた。
「……なんだよ」
ぼそりと呟くと、ジルファリアは倒れた椅子もそのままに外扉の方へと歩き出した。
「お、おいジル?!」
サツキの制止も聞かず、ガチャリとドアノブを回す。
「母ちゃんのバカ野郎!」
そう言い捨てると、ジルファリアは夜の中を飛び出した。
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