「サッちゃん、悪いね。そのへんに掛けといておくれ」
階下の店舗に足を踏み入れるなりアドレの朗らかな声が飛んできた。
店内にはふわりと焼きたてのパンの香りが漂っている。もっともジルファリアにとっては日常の風景なので、その匂いですら生活の一部で特別なことでもなかった。
「ジル、あんたはカウンターの掃除だよ」
「へいへい……」
うんざりしたような表情になり、ジルファリアは雑巾を手に持った。
サツキが傍らの小さな腰掛けに腰を下ろすのを確認すると、台の上を乾拭きし始める。
「てか、お前も手伝えよ」
不満げに半眼になったジルファリアに、サツキがにやにやと同情の欠片もない笑顔を向けた。
「何言ってんだい、サッちゃんに手伝わせるなんておよし」
大きな紙袋を抱えたアドレが奥のパン工房から出てくる。
「そうだぞ、ジル。サツキも家業が忙しいんだからな」
アドレの後を付いてきたのは、ジルファリアの父親パドだった。
「おっちゃん、こんにちは」
「おう、サツキ。今日はキリングのヤツはどうしてる?」
そしてパドは、ラバードの飲み仲間でもあった。
「今日はちゃんと店番してます」
呆れたような顔で返すサツキに、パドも同じような表情をする。
「なんだ珍しいな。いつもいつも女のケツばっか追いかけてるのにな」
「今度は小料理屋のおカミさんを狙ってるみたいで……」
「もう、キリングったら。子どもにそんなことまで話してるのかいっ」
再び目を吊り上げたアドレが乱暴に紙袋をカウンターへ置いた。その横では、乾拭きを終えたジルファリアが水を張ったバケツを持ち上げている。
「おまえも大変だな、サツキ」
「けど、勉強になるようなことも教えてもろてるからな」
サツキは肩をすくめた。
ラバードは今でこそ職人街の洗濯屋のおやじで通っているけれども、昔は世界中で傭兵や賞金稼ぎのようなこともしていたという。酒瓶片手によく武勇伝という名の自慢話を散々聞かされているジルファリアも、あぁと納得した。
サツキはそんなラバードをとても尊敬しており、彼ら父子の仲がとても良い事をジルファリアは充分すぎるほど知っていた。サツキが博識なのはそんなラバードの話をいつも聞いている影響だろう。
「それにしたって、せめて昼間くらいは毎日店番しろって話だよ」
盛大にため息を吐きながら、アドレが紙袋の中からいくつかパンを取り出した。
「サッちゃん、明日の朝にどうだい?サッちゃんの好きなバターパンもあるよ」
「いつもすんません、ありがとうございます」
パンをいくつか見繕うアドレの様子にサツキは心底嬉しそうな笑顔を見せた。
「あ、ちょいと待ってなサツキ。ジルも」
言うが早いか、パドが工房の方へ走って行く。
「今、ジルの好物の堅パンを仕込んでたんだ。今から焼いてやっからな」
「やった!」
バリバリとした食感のパンを思い出し、ジルファリアは思わず手を打った。
「あれは焼きたてが一番うまいんだよなぁ」
などと言いながらサツキの隣に腰掛け、カウンターに頬杖をつくと工房のほうを眺め出した。
サツキが掃除はしなくてもいいのかと尋ねるが、「ん?」とにこにこしたまま首を傾げるだけで、ジルファリアは視線をパドから逸らそうともしない。
「いいんだよ、サッちゃん。窯焼きの時だけはジルはテコでも動かないからね」
アドレが苦笑いしながら答える。
工房のほうでパドが窯に薪を焚べながら何か呟いているのを見て、サツキは合点が入った。
「魔法……やな」
サツキの言葉に答える代わりにジルファリアはニヤリと笑う。
次の瞬間、パドの指先からチリッと火の粉が舞い、手の平の上には小さな炎が現れた。
「炎の神と食事の神。願わくば、おいしいおいしいパンが焼けますように、どうか力を貸しておくんなさい」
などと歌うように魔法の言葉を口にしながら、パドはその手に持った炎を窯の中へと放り込む。
すると、窯の中でぱちぱちと薪が燃える音がし始めた。
「よしよし」
満足そうに眺めると、パドはその扉を閉めた。
「まだ小一刻くらい時間がかかるから、お前たち、アドレのクラケットでも食って待っときな」
「ジルは掃除もね」
すかさず飛んでくるアドレの声に些か不満そうな表情ではあったが、それでもジルファリアは嬉しそうに石窯から目を離さないでいた。
「ジルはほんまに魔法が好きやなぁ」
感心したようにサツキが呟く。
サツキの言葉通り、ジルファリアは物心ついた頃……いやそれよりも前から魔法に興味があり、また単純に好きだった。
この国に生まれ育った者は、誰しもが魔法を使えると言われている。
どういうわけか他の国にはあまり魔法を使える者がいないという事から、この国独自の特徴らしい。
それがこの聖王国セレインストラが魔法使いの都だと言われる所以であった。
理由は、創造神の創った大樹が近くの山脈に存在しているからだとか、創造神が最後の眠りについたのが王城横に広がる湖だったからだとか、はたまた創造神の子孫が王族だからだとか。
眉唾な噂や憶測も含めて沢山挙がっているが、結局のところは誰も解明ができていないというのだ。
そのため、その謎を解き明かしたい諸外国の研究者たちが日々この国を訪ねているらしい。
当の王国住民たちはさしてその理由には興味がなく、ただ日々をのほほんと呑気に暮らしているようにジルファリアには見えた。
暮らしの中で、少しばかり自然や天候などから力を借り、手助けをしてもらっている。そして、そんな自然と共存しているのがこの国であり、ジルファリアはこの国を幼心ながらにとても愛していた。
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