「はぁ〜、食った食ったぁ」
どかりと軒先の椅子に腰掛けたラバードは満足そうに腹をさすった。
「おっちゃんの地獄スープ、ほんとに不味かったなぁ」
その隣の椅子に腰掛けていたジルファリアがぼやいた。
「こら、ジル。作ってもらった食事に不味いなんて言うもんじゃないよ」
「だってさ母ちゃん」
「あたしら大人からしたらあの痺れるような辛さが美味しいんだけどねぇ」
二人の間に置かれたテーブルに茶の入った椀を置くと、アドレは店内に入って行った。
口直しをしようと茶飲みに口を付けたジルファリアは、そのまま目の前の光景を眺める。
職人街は隣近所、そのまた隣近所と皆が知り合いのような場所なので、住人たちは夕餉の時刻から家の軒先に椅子やテーブルを出して、夕食やその後の晩酌なども外で行うことが多いのだ。
そのため夕刻時から夜半まで職人通りは住人達だけでとても賑やかになる。
「みんなこうしてワイワイ飯食って飲んだくれてんのは、ほんまにええもんやなぁ」
同じく茶飲みを片手にしたラバードが目を細めて言った。
「まぁな。雨さえ降ってなきゃいつもこんな調子だもんな」
「うん、みんな陽気で気の良い奴らや。大人も子どもも歌ったり踊ったり……楽しそうやんか」
そんなラバードの言葉に反応するかのように、目の前の小さな広場で金物屋と眼鏡屋が踊り始める。
確かに楽しそうではあるが、その熱気にうんざりしたジルファリアはぐいと茶を飲み干した。
「みんないつも暑苦しいぞ。雪でも降ってくんねーかな」
そうしたら少しはこの辺りも涼しくなるんじゃないかと、ジルファリアは空を見上げた。黄昏の橙色はすっかり消え、日暮れ後の薄暗い色から夜の漆黒に変化している空には、雪の代わりに少しずつ星が見え始めた頃だった。
「まぁ、常春のセレインストラじゃ無理だよなー」
視線を目の前の金物屋たちに移すと、ジルファリアは茶飲みをテーブルに置いた。ラバードはくすりと笑う。
「セレインストラにも雪が降った事あるんやで、ジル」
「え、ほんとか?すげー!」
「うん、あん時はみんな祭りの勢いで喜んでたなぁ。子どもも大人も夜まではしゃいで雪遊びしたりな」
「なんだ、じゃあ今とあんま変わんねぇな。結局騒いでるんじゃん」
呆れたようにジルファリアがため息をつく。
「あの日は、俺にとっても大切な日やったな」
ふふ、とラバードは静かに笑い、茶を流し込んだ。
「なぁ、ジル」
「なんだ?おっちゃん」
ラバードは椅子の背もたれ越しに店内を見遣った。その目線の先にはパドと談笑しているサツキの姿があった。
「お前はサツキとずっと友だちでいてやってくれよ」
その慈しむような表情をこちらに向けると、ニカリと笑った。
「ん?うん、もちろんだぞ。サツキはオレの大事な相棒だ」
「ならよかった」
嬉しそうに笑うラバードの上を突然何かが過ぎった。
「あ。黄昏星」
ジルファリアが指を指す。
ラバードの頭上だけではない。そこで踊っている金物屋の足元や、職人通りの街灯のあたり、見上げれば空にも。
蛍のような、ふわりと柔らかく暖かな光の玉がそこかしこで漂い始めたのだ。
「あぁ、もうそんな時間か」
まるで美しい宝石を眺めるかのように目を細め、ラバードが呟く。
「今日も聖王様が守ってくださってるってこっちゃ」
「あ、そっか」
先ほど広場で親子が歌っていたのを思い出す。
「……みんなのことを守るのは、きらきらかがやくお星さま」
自分も小さな頃から母親とよく歌っていたものだとジルファリアは口ずさんだ。
「その歌なつかしいなぁ。聖王国民やったらみんな歌えるわらべうたやな」
そう言いながら、ラバードも一緒になって歌い出す。
「なぁおっちゃん、みんなを守るっていうのはどういう意味なんだ?」
一通り歌い終わると、ジルファリアは気になっていたことを訊ねた。
「うん、セレインストラってのは昔から魔法使いが大勢住んでる国やろ?その影響か何かでここいらに集まってる魔法の力が大きくて強いんやて」
「そうなのか」
「そう、せやからその魔力に引き寄せられてやって来る魔物に狙われやすいんやな」
「魔物……」
話には聞いた事があるが、目にした事はない。人間とも動物たちとも違う、恐ろしい姿をした生き物だと街の物知り爺が言っていたのを思い出した。
「魔物もな、中には俺たち人間よりも幽霊みたいな精神生命体に近いやつもおって、そういう奴らは人間にとったら危ないわけよ。身体に入り込んできたり、下手したら乗り移られてお陀仏や」
「ふーん、そうなのか」
「そんでな、魔法っちゅうんは剣で戦うとかに比べてどっちかっていうと精神……心を使うんやな。やから、その力に惹かれて吸い寄せられる魔物たちがいるってこっちゃ」
「え、じゃあセレインストラが危ねぇじゃん」
ジルファリアがはっと息を呑むと、ラバードは得意げな顔で頷いた。
「そうや。せやから魔物たちに襲われないように、聖王様が毎日毎夜、この国に結界を張ってくださってるんや」
「そうなのかー!じゃあ黄昏星っていうのは、聖王さまが作っている魔法の結界って事なんだな!」
すげぇ、とジルファリアが瞳をキラキラさせる。聖王への憧れのような感情がますます強まったようだった。
「けど、ほんとにおっちゃんはいろんな事知ってんだな。すごいぞ」
「へへ、まぁな。色々物知りやと女の子がすごいすごいーって言ってくれるからなー」
得意げにラバードが胸を張るが、ジルファリアは半眼になりため息を吐く。
「すごいって言って損した」
「そんな事言うなよジル。まぁともかく、黄昏星っていうんは、代々その時代の聖王様や聖女王様が受け継ぐ力のことなんや」
「じゃあ、いまの聖王国はウルファスさまが守ってくれてるんだな」
「そうや」
「会ってみたいなー」
憧れの魔法使い達の頂点にいる王だ。きっとものすごい魔法使いに違いないとジルファリアは思いを馳せた。
「アホか、ウルファス様が俺らみたいな下々のモンに会ってくれるわけないやろ」
「むー、そんな事ないと思うぞ。だってすごく優しそうだったし」
以前、中央広場の祭りに公務で来ていたウルファス王の姿を思い出しながらジルファリアが首を捻る。
「そりゃ公務の時だからな」
「なんだよー」
絶対いつか会ってやるぞと頬杖をつくと、その頬を黄昏星のひとつが撫でた。
かすかに感じるあたたかさに、その動きを視線で追う。ふわふわと漂っていく星はやがていくつもの星々と共に、聖王国の空を舞った。ひとつひとつが薄ぼんやりと灯り、宵闇の空に滲み溶けていくようだ。
その光景はいつ見てもジルファリアの心をあたたかくしてくれている。悲しいことがあった時や嬉しい時にも、その星々はジルファリアの心に寄り添ってくれている気がしたのだ。
「なぁ、おっちゃん」
「んん?」
「やっぱさ、ウルファスさまは優しいと思うぞ」
ジルファリアは椅子の上で膝を抱えて座り直す。そして空を仰ぎ見ながらにっこりと笑った。
「だってさ、こんなにやさしい魔法が使えるんだぜ。ぜったいあったかくてやさしい人だ」
「……そうやな」
その言葉に呼応するように、数多の星々はやわらかく夜空を舞い踊ったのだった。
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