一章;動きはじめた日常
それは彼の日課だった。
毎日こうして屋根に登っては、遠くに見える真っ白な城を眺めている。
真っ青な空との対比がくっきりとしているほど、その建造物はとても白く美しかった。その佇まいにいつも憧れと幸福感を感じるのだ。顔を綻ばせて見開いた瞳は黒曜石のような色をしており、夜空の星々のように煌めいて見えた。
「いーい天気だなぁ」
くぁぁと伸びをしながら陽の光をあびる。空を仰ぎ見ると雲ひとつない青い空が、この王都の上に広がっていた。
そのひとつなぎの空をもっと眺めたいと、彼はごろんと仰向けに寝転がる。背中に当たる屋根瓦の感触が硬く、頭の下で手を組んだ。日当たりが良いせいかじんわりと温かい。
そのまま空を眺めていると、賑やかな雑踏音が聞こえてきた。
今日も今日とて、自分の住んでいる職人街は賑やかである。
食事処の客引き声や、荷馬車が走り抜ける車輪の音。積み上げられた木箱が乱暴に投げ出される音__
今はちょうど、昼過ぎの混み合う時間帯だ。昼食を終えた買い物客で通路はひしめき合っている。
生まれた頃から過ごしてきたこの馴染みの五月蝿さが丁度良い。少年はうとうととしながら傍らの紙袋に手を伸ばした。
がさがさと手探りで取り出したのは、クラケットと呼ばれている焼き菓子だ。指で摘めるほど小さなそれを口に放り込む。
バターの香りとほのかに甘い砂糖の味が口に広がった。ザクザクとした食感に笑みが零れる。
この焼き菓子は聖王国の伝統菓子で、いま食べているのは彼の両親が営むパン工房の名物商品だ。そして母特製のそれは、彼の好物でもあった。
今も階下で焼いているのだろう。香ばしい香りが風に乗って、ここまで漂ってくる。
「手伝いもしないで!」と怒られるのはいつものことだが、のんびりとした昼下がりの時間に、美しい王城を眺める日課だけは譲れない。
日が傾く頃、国の最西端に位置する王城が夕陽に照らされる。その輝く姿がそれはそれは見事なのだ。少年はそんな風景が好きだった。というよりも、彼は自分の育ったこの国自身がとても好きだった。
ここは聖王国セレインストラという、魔法使いたちが住む都だ。
「ちょっとジルー、どこにいるんだい?」
階下から聞こえてくる母の声に、ジルと呼ばれた少年が一人笑いを噛み殺した。
この時間帯といえば、夕方に売る分のパンの仕込みが終わり、そろそろ窯焼きが始まる頃合いだ。という事は、自分も馬車馬のように働かされる時間ということだ。もうしばらくここで時間を潰してやろう。
「全くジルったらどこに……、まーさかまた二階の屋根で寝そべってるんじゃないだろうね!」
母の声に怒気が混じり始めたのを感じ、やべ、と声を漏らしその身を起こした。
(逃げよ)
短い呻き声を上げながら、ジルファリア=フォークスは屋根瓦の上に立ち上がる。ぽんぽんと尻のあたりを叩くと砂埃が軽く舞った。
おっと、クラケットの袋を忘れてはいけない。と、足元の菓子袋を取り上げる。
今日はどこへ行こうか。
そろそろ大通りは飽きてきたところだ。
ジルファリアは日差しに目を細めながら思案した。
聖王国セレインストラの王都セレニスでも一番雑多__もとい、賑わっているのがここ南東部に位置する職人街である。王城からは最も離れているのだが、それがむしろ城の全景を眺めるのにちょうど良い距離だった。
「っとと」
その時、この国特有の南風が吹き、彼の寝癖混じりの髪がふわりと浮いた。つんつんと短く刈られた栗色の髪が、まるで草原のようにさわさわと揺れる。
同時に、街道沿いに咲いている花が花びらを散らして風に舞った。ここから見渡すその光景は、まるで花の妖精が舞い踊っているようだ。
「いい加減に降りて来なさいっ!」
とうとう堪忍袋の尾が切れたらしい。階下から地鳴りのような大声が聞こえた。目を吊り上げているであろう母の顔が目に浮かぶ。
いよいよここも危なくなってきたな。ジルファリアが肩をすくめた時だった。
「今あやまったら許してくれるんちゃう?」
突然そんな妙な話し方をする声がすぐ傍から聞こえてきた。
と同時に、抱えていた菓子袋からクラケットをひとつ奪われる。いつものことなのか特に腹を立てた様子もなく、ジルファリアは「食えば?」と紙袋ごとその声の主に差し出した。
それはジルファリアと同じ年頃の少年で、彼は呆れた顔でクラケットをかじっていた。
「今出てったら間違いなく店番させられるだろ?」
ジルファリアは悪びれた様子もなく、にししと白い歯を見せて笑った。
「お前に巻きこまれて、おばさんに一緒にあやまるんはいっつもおれなんやで、ジル」
「悪ぃ悪ぃ」
棒読みのような声でジルファリアが少年を見遣る。ジルファリアの猫のようにきゅっと吊り上がった瞳がきらりと悪戯っぽく光った。
そんな様子に苦笑しながら隣に並び立った少年は、ジルファリアとは対照的に真っ黒で真ん丸な瞳が印象的だった。光さえも吸い込んでしまいそうな……まるで真っ暗な夜みたいだとジルファリアはいつも思っていた。
黒髪がだらしなく伸び、古びた服を着ているが不思議と不潔感はない。いつも彼からは石鹸の良い香りがするのだ。
彼の家は二軒隣で洗濯屋を営んでいる。ジルファリアの一家とも昔から馴染みのある家で、父一人子一人で暮らしていた。
「けどさ、サツキ。お前だって楽しんでるだろ?こないだ野菜屋のばあちゃんをおどろかせたイタズラは楽しかったよなぁ」
相変わらず楽しそうに笑っているジルファリアに、少年サツキはまぁなと返した。
二人はこの職人街で知らないものはいないほどの悪戯小僧たちなのだった。
コメント